MENU
お知らせ内容をここに入力してください。

お世話になった会社へ感謝を

  • URLをコピーしました!

2023年11月17日、今日がコマツでの最終出社日でした。2006年4月1日に新卒で入社してから17年半、40歳の年に、ついに退職です。

会社には、本当に感謝しかありません。ポンコツ新入社員だった私を、少しはまともな社会人に育ててくださった上司・先輩の皆様、困った時に寄り添ってくれた同期の皆様、常に新しい発想で刺激を下さった後輩の皆様、本当にありがとうございました。

ここからは、会社人間だった中年が、なぜ、どのように変化し、ついには会社を辞めるに至ったかのプロセスを書いていきます。
私より年上の方は「そんな気持ちもあったなあ」と、同年代の方は「自分にも当てはまるかも」と、若い方は「いつか通る道なのかもなあ」と思いながら読んでいただければ幸いです。私の「ガチ」をぶつけますから、ご自身の「ガチ」で感じとっていただければと思います。

元々のキャリア観
私は2006年にコマツというメーカーに新卒入社して経理に配属され、一貫して経理畑を歩んできました。一つの職種の幅と深さを大きくしながらキャリアを形成できたという点では、いわゆるジョブ型というやつです。経理を志望したきっかけは、一番早く経営に携われると考えたからです。本当は考えたというより、とある方の文言をそのまま信じた、というのが正確です。学生時代から「経営」とか「MBA」という言葉の響きにかっこよさを感じていた私は、何かしら「経営」というキーワードに関係する仕事につきたいと考えていました。じゃあ経営コンサルタントがいいのかな?なんて漠然と考えていた時に、昔の信越化学のCFOだった金児さんという方が書かれた本に「経理とは経営管理の略である」というようなことが書かれていて、短絡的な私は「経理は経営者の右腕みたいなもんなんだな。じゃあ経理で」と職種を決めました。その本の中に「会社を知るのに一番いいのは小さな事業部に行くことだ。全体像がわかるから」というようなことも書かれていて、ここでも短絡的な私は「じゃあ規模の小さい事業部にいこう」と決めました。

成長曲線
今振り返ると、入社10年目までは常に自分自身の成長が出来た、非常に恵まれた10年間を過ごしたと思います。最初の上司が大事とはよく言われますが、私はずっと上司に恵まれました。他の人と比べても、結構厳しい上司陣に恵まれたかなと思います。もちろん、厳しい上司というのは後から振り返って初めて「あの人のおかげで少しはまともな人間になれたなあ」と思うものの、一緒に仕事している最中はしんどくて仕方がありません。だって、常に自分の考えていることは見透かされ、自分の能力よりも高い要求が繰り返されるわけですから。当時ですから双方向な対話ができる上司があまりいるわけでもなくて、基本的にはできなくて叱られ、もがきながら自分の枠を少しずつ大きくしていく、というプロセスを続けました。私のこの投稿のキーワードでもありますが、「コンフォートゾーン」から引っ張り上げてくれる人が常にいた、ということです。

停滞と疑問
しかし10年を過ぎたあるころから、明らかに成長スピードが落ちてきました。仕事に既視感があり、叱られることもほとんど無くなり、あったとしてもあまり洞察を伴うようなフィードバックではなかったことで、「コンフォートゾーン」を強制的に抜け出せる環境がなくなったからです。人によってはそれは成長の証であり素晴らしいと捉えることもできると思いますが、私はどちらかといえば「何か歯ごたえがない」状態に陥りました。環境のせいにして、自分自身でコンフォートゾーンを抜け出す方法を模索しなかったという問題もあります。そんなタイミングで、運よくアメリカへの駐在が決まりました。

新しい価値観との遭遇
アメリカでの生活・仕事は自分自身に新しい価値観を提供してくれました。言葉に偽りなく、「人生が変わる経験」だったと思います。私が根本的に心を揺さぶられたのは「I’m Okay, You’re Okay」文化です。そんな言葉があるかどうかはわかりませんが、自分の解釈は「私は自由にする。好きにする。私は私のままでOK。今の私に満足している。だから、あなたはあなたのままでいいし、好きにしていい、そのあなたを尊重する」です。だからこそいい意味で他人に興味がなく、個人主義なのだと思います。一方で日本はどうでしょうか。私の理解は「私は我慢している。だからあなたも我慢しなさい」です。例えばコロナで出てきた自粛警察なんかがそうだと思います。私は我慢したくないけどルールだから守っているし、ルールを守るべき。なのに守らないやつがいる。それは許さない、と。匿名の掲示板や、ツイッターの匿名比率が高いのなんかもそうだと思います。「こんなことを言ったら何を言われるかわからない」から匿名を使う。でも、本当はみんな、もっと自由に発言したいということなのだと思います。

成長に順張りなアメリカ人
駐在先のアメリカ人には本当によくしてもらいました。「こういうのをメンターというのか」と思えるほど、自分をモチベートしてくれるアメリカ人に何人も出会うことができました。「Yohei、今日が1番若いんだぞ。今やらなくてどうする」と、手始めに米国公認会計士の学習を勧められました。日本にいた時の自分はそういった資格関係に興味がなく、むしろ、「資格?仕事の能力と関係ない。そんなもんいらん。勉強する暇あったら仕事に打ち込む」というスタンスでした。斜に構えていたという内的要因と、資格が社内で評価されてないという外的要因から来るものでした。しかしアメリカ人は「勉強して成長しよう」というスタンスですし、勉強したことを素直に評価してくれる環境があります。日本語だと斜に構えていた私ですが、英語だと斜に構えない。いわゆる、言語が違うと人格が変わる、というやつです。
「日本人とアメリカ人って未来の捉え方違うよな」と思って何人にも聞いてみたんです、「明日は今日よりも良くなっていると思うか?」と。そしたら聞き取りした全員が「?どういう意味?そりゃ良くなるでしょ」と言うんです。これ、強がりでもなんでもないと思うんですよ。シンプルにそう思ってるんです。かたや日本はどうでしょう?むしろ、明日は今日よりも悪くなっているだろうな、と思っているところがないでしょうか?
この、シンプルで前向きな姿勢に大きく感化されました。

会社を辞めたいと思う
よし、勉強するか、と思っていた私ですが、どうももうひと押しがありません。そんな中、どうしても嫌なこと・状態があり、会社人生で初めて会社を辞めたいと思うようになりました。転職を真剣に考えたとき、「米国公認会計士の資格があった方がいいな」と切実に思えるようになり、本気で勉強するモチベーションになりました。ポジティブな動機とネガティブな動機が、ここで両輪となって回り始めました。あの時嫌なことがなければ勉強は続いていなかったかもしれません。そう思うと、「何事にも意味がある」というのは本当だな、と感じます。

勉強による自分の変化
一年半の勉強の結果、米国公認会計士になることができました。この試験、だいたい100万円くらいかかるんです。やる前は「100万円かける意味あるのかなあ」って思っていたのですが、今なら間違いなく「ある」と言えます。私はアビタスという日本のスクールを使わせてもらいました。特徴を私なりに解釈すると「普通の会社員が最も効率的に合格点を取る工夫が凝縮されている」です。だいたい1日3時間を500日継続で1500時間勉強すると合格します。1日3時間も勉強するなんて、私には信じられませんでした。でも色んな工夫があって、勉強することができました。この「1日3時間を500日」出来たことは、「俺は三日坊主で根気がない」という自身への解釈を変えました。合格よりも、500日継続できたプロセスの方が、自分には意味のある変化でした。

お試しMBAによる自己の変化
一度この自分が変わることの面白さを覚えてしまうと、もっと面白いことを求めてしまうのが人間の性です。なんか面白いことないかなあ、と思っていたところに、日本のビジネススクールのグロービスがUSA校を立ち上げたのでオンライン単科コースに参加してみました。10数人のクラスで日本人は私1人でした。ここでの議論が、とにかく面白かった。リーダーシップのクラスだったのですが、わたしはいつも通り斜に構えて「リーダーシップの定義も考えも、本で読んできたし、自分なりの解釈もあるから、そんなに新しい学びはないだろう」と思っていました。が、非日本人の人たちの視点・考え方・話し方・話す間合い、全てが新鮮で、彼らとの議論を交わすうちに、自分が考えるリーダーシップの定義が変わり、より腑に落ちる状態を得ました。
私はこの経験を通じて「頭でわかったつもりになっていることって多いな。他にも気づかないところでたくさんこういうバイアスがあるのだろう」と気がつきました。と同時に、「もっと面白い人・面白い世界があるんだろうな」という感覚のようなものを得ました。

仕事による自分の変化
前の段でアメリカ人の成長順張りの話がありましたけれども、駐在3年を超えた私は米人CFOや日本人社長と密に仕事をすることで、「いかに自分が経理以外のことを何も知らないか」思い知らされます。彼らの右腕になりたかった者として、マーケティングやIT、生産、組織論などには何も引き出しがない自分に不甲斐なさを感じました。また、アメリカ人の経営と日本人の経営を比べた時、アメリカ人は若い時から経営をしていて、専門職を極めたアガリとしての経営者をやっている日本人とは根本的に違うことも、身をもって知りました。どちらも一長一短でしょうが、スキルとして経営をする方が、より自然なのではないかと思うようになりました。経営学。いまさら勉強するならどこだろう。やっぱりMBA行こう、と決めました。

MBAを受ける
MBAの種類は色々あるので説明は端折りますが、私は一年のフルタイムMBAを探していました。通いながらという選択肢もありますが、働きながらだと変化の具合が少ないかもしれないと思ったからです。調べていくと、GEの元社長のスローンさんという人が作ったミドル向けの一年制経営教育プログラムがあり、世界に3校存在することを知りました。初夏に日本への帰任が決まっていた私は、9月始まりの学校の受験は日程的に難しかったので、1月から始まるロンドン・ビジネススクールを受験することにしました。ここで効いたのがUSCPAでした。本来であればGMATというテストを受けないといけないのですが「俺はUSCPA持ってるからテスト免除してくれ。ワーキングプロフェッショナルだから大丈夫」と交渉したところ、免除してもらうことができました。とりあえず交渉してみる、という姿勢はアメリカに行って学んだもので、かつ、日本語だと言えないことが、英語だと平気で言えちゃう人格の違いも、面白いですよね。

繰上げ合格
テストは免除されたものの、私はエッセイと面接の結果、不合格となりました。そりゃそうです。難しい学校だし、周りは猛者だらけですから。まあ仕方ないよなあ、なんて思いながら1か月くらいしたある日、面接官から連絡があり、「他の学校に決まったか?」と聞かれました。わたしは「いや、おれはあんたの学校しか受けてないから合格出してくれ。行くから」と伝えたところ、「わかった。ちょっと待っとけ」と言われて1週間後、なぜか繰上げ合格しました。本来誰かが行く予定だったのが、キャンセルになったのでしょう。まさにラッキー。運命がわたしに微笑みました。一回落ちたからと言って遠慮する必要はありません。ガンガン行きます。

お金をどうする
あえて日本円では書きませんけれども、学費で9万ポンド、生活費で4万ポンドほど必要となりました。さてどうする。さすがにこの金額は出せん。妻に言いました。「(お金が無くなるから)フリーターと結婚したと思って、ちょっと行ってきていい?」と。すると妻は答えました。「ずっと行きたいって言ってたやん。ごちゃごちゃ言わんと勝負してこんかい。ただし卒業後、死ぬ気で稼ぐように」とのありがたいお言葉。さすが男前。普通こんなこと言えるでしょうか?平身低頭しながら、とにかく感謝の正拳突きで学費の一部を支払い、無事に入学が決まりました。

若い才能
入学が決まるということは、退職も決まるということです。上司に辞意を伝えて無事受理されたものの、気になるのは自分よりも年次の若い人たちでした。楽しかったんです、若い人たちと働くことが。色んなことを伝えられそうだという手応えと、自分の働きかけ次第でますます成長していただけそうだな、と思いました。
ただ、それは傲慢な勘違いであり、「大組織での歯車としての自分の影響力の無さ」は自覚しており、「そもそも若い方々は自律的で優秀であり、わたしの手応えはただの自己満足」ということも認識しておりました。
代わりに、この先彼らが悩んだ時に、会社という枠を超えて、寄り添い、共感をし続けよう、と決めました。

これから
まだ何も成し遂げてないくせに、むしろこの年でロンドン留学に行ってうまくいかない可能性もあるのに、よくそんなに自分語りをできるなあ、というところではありますが、このように「ポジションを取る」ってのは良いことだと思っています。「結果が出てから書く」のではなくて、「結果が出る前に書く」です。というか、結果どうこうではなくて、プロセスを書く、です。
うまく行くことが成功なのではなく、自ら主体的に選択をし続けるプロセスそのものが、人生の面白さなのではないか、と今は思っています。

自分の力ではなくて
この年になると、人生の短さを感じるようになります。若い時は永遠に生きられるような前提でしたが、そうではないですね。一方で、自分はなぜ健康で生きられているんだろう、と考えると、ただの運だとしか思えません。明らかに、自分の力では、ないですよね。であるならば、たまたま生かしてもらっているこの運命に感謝して、謙虚に生きていきたいな、と思っています。
学校に行けることにも、勇気づけてくれる妻にも、父親不在でも元気にやってる子供達にも、温かく送り出してくれた会社の皆様にも、そして健康に産んでくれた両親にも、感謝を。

いやあ、長い。長すぎる、この文章笑 でもそろそろ結びを。

コマツでお世話になったみなさま、18年間本当にありがとうございました。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次